みちばた日誌

いまをぼちぼち生きる。

無題

ここ二週間ほど、うまく寝つけない日が続いています。寝れないからついYouTube開いたり、Kindleで漫画読んだりするのですが、これがどうやら逆効果のようで、気づけば朝になっていることもしばしば。諦めて睡眠薬を飲むこともありますが、これがまた厄介なもので眠れはしますが起きるときダルくて仕方がない。我ながらなんとも難儀な話です。

 

眠れない理由はわりとはっきりしていて。というのも、ここ最近日中ほぼ体を動かしていないのです。布団をかぶって寝ているか、動画みてるか、本読んでるか。まぁそんな具合なので、家どころか部屋からすら飯・風呂・トイレ以外出ることがなくなりました。

 

うつの診断をもらって1年半ほどになりますが、ここまで本格的に引きこもったのは初めてかもしれません。どう考えてもこれがよくないことであるのは自分でも理解しているつもりですが、それとは裏腹に何に対しても意欲が湧かなくなってしまいました。何もかも、めんどくさい。

 

動かないからか食事の量も減りました。一日一食と軽い間食で済ませる日が増えた気がします。ほぼ横になって過ごしているからか、腰回りや足の節なんかが痛みます。それでも体を動かす気が起きないので、体勢をかえたりしてやり過ごしています。

 

そんな感じなので昼間は起きてるんだか寝てるんだかみたいな時間が長くて、時々ほんとに眠りに落ちることもあったりします。その間が今は一番幸せです。なにも考えなくていいので。でもそうすると、またよる眠れなくなるという悪循環に陥るわけで。参ります。

 

本当はこういうことを人に愚痴ったり、相談したりする方が精神衛生上はいいのだと思いますが、それもなんか上手くできなくて。家族や友人、医師や恩師と呼べる人もいるはずなのに、誰に、どう伝えていいものかがさっぱりわからない。

 

それは怯えなのかもしれません。自分のいまの状況に対して、想定していない厳しい声が返ってくるかもしれないから。「自分」と「病気」の境が不明瞭ないま、その言葉を受け流したり、適切に処理するだけの余裕がないのです。

 

あるいは諦めなのかもしれません。自分のつらさなど周りからすれば所詮他人事で、そもそも理解してもらえるということ自体がありっこないのだ、という他者への諦め。そして、仮に自分のつらさを丸々きれいに理解できる人がいたとしても、その人の優しさを素直に受け止められる心を自分は持ち合わせていないだろう、という自分への諦め。

 

うつという病気に対する知識をもって、客観的に考えれば、こうしたマイナス思考も病気によるものだと簡単に結論付けられます。自分はいま、病気によって冷静に物事を考えられないのだと。その一方で、自分自身の心にただただ従うならば、一日の大半を不安や悲しみのなかで過ごし、喜びや楽しさが瞬間的で、全く長続きしない地獄にあって、これが病気という一過性の現象であるという確証が全くもてないというのが本音なのです。

 

明日も明後日もその先も、自分は誰にも心をひらけないまま老いていく。そう考えるとこの先の人生が途方もなくつらく苦しいもののように思えてならないのです。

 

自分が何に幸せを感じて、どう生きていきたいのか。うつになるまでそんなこと考えもしなかったし、うつになってそれを考える時間をもらって、でもその糸口も掴めないまま時間だけが刻々と過ぎていく。

 

眠れない夜、この記事を書く私は、その幸せとか生き方みたいなものがきっと見つけられるはずだと、それでも諦められずになんとか足掻いているのだと思います。だからほとんどのことに無気力になったいまでも、この文章を書こうとしたのかもしれない。そう思うのです。

 

願わくば、このままスーっと眠りについて目覚めたときには朝ごはんを食べたいと思えていますように。もしくは眠りについたまま朝を迎えられませんように。おやすみなさい。