みちばた日誌

いまをぼちぼち生きる。

感覚と言葉の話。

行き詰まったり思い悩んだりしたとき、なんとなく足を運ぶ場所があります。隣町の河口にある海浜公園です。悪夢にうなされて3時半に目覚めた私は、修理したての自転車でここを訪れました。

 

片道45分、道中には大きな坂もなく、幹線道路に沿って走るのでコンビニなんかに寄ることもできるということもあって、スマホだけ持って出れば困ることはありません。行きがけ、100円の缶コーヒーを買ってポケットに忍ばせました。

 

ここ数日強めに降った雨のせいか、外は湿気った風通しの悪い部屋のような、そんな匂いがしていました。文字にするとなんとなく不快な響きになってしまいましたが、この匂いが私はわりと嫌いじゃありません。山奥にある祖父母の家を思い出して、幼少期の思い出が湧いてくるからかもしれません。

 

そんなことを考えながら、今は件の公園でこの記事を書いています。日が高くなって来るにつれ、肌寒いくらいだった気温も過ごしやすくなってきて、代わりに湿気ったあの香りも薄らいできたような気がします。あるいは潮風にかきけされているだけかもしれません。

 

こういう「におい」を感じると、つくづく「言葉で表現することには限界がある」ということに気付かされます。嗅覚で刺激された感情の揺れは、記憶の封印されている壺のふたを軽く持ち上げて、その記憶がまた感情を揺らす。それが連鎖反応的に、マトリョーシカみたいな感じで繰り返されるさまは、言葉で正確に言い表すことはできそうにありません。

 

しかし、もし仮にそうした心の揺らぎを完全に言葉で表せたとして、自分が伝えたい通りに他者がそれを受け取ってくれるだろうか。答えは考えるまでもなく難しいといえると思います。「うれしい」や「悲しい」という言葉一つとっても、その言葉に紐付いている感情や記憶は千差万別です。ゆえに「完璧に表現できた!」と自分では思えたとしても、それを聞き手に自分が意図した形で正確に理解してもらうことはできないでしょう。

 

つまるところ、言葉による表現の限界は①表現する側の表現力による限界、②表現を受け取る側との理解の差による限界、少なくともその2点において生じるのだろう。…みたいなことを思いました。

 

私は頭でっかちなのでついつい物事の理解を言葉に頼りがちなのですが、①の表現力の限界を考えると、もう少し肌感覚というか、感じたままを感じたままにしておくようにしておくことも必要なのかもしれないと思いました。感じたことすべてを言葉に置き換えてしまうことはできないし、無理矢理にそれをしてしまえば本質をねじ曲げかねないなぁ、と。

 

見たこと、聴いたこと、触れたこと、嗅いだこと、味わったこと、そのどれにも属さないけどとにかく感じたこと。それを自分のなかで丁寧に貯めていけば、人生の焦りや寂しさも和らいでいくのかもしれません。

 

そして、もし自分の感動を他者と共有できたと感じられたとき、それは文字通り「有難いこと」であって、そういう瞬間を大切にしたいと思いました。ちがう人間同士、むしろ伝わらないことの方が自然なわけですから…。

 

寝ぼけ頭で考えるにわか哲学ほど無駄なものもないと思いつつも、なんか自分なりに考えがまとまったので書き残しておこうかなぁと。そんな風に思いましたが、もう既にあとから見返すのは恐い…。笑

 

でもまぁ、なんだか気分がスッキリしたので良しとします。こんなもん見せられた側はたまったもんじゃないでしょうが…お許しください^^:

 

さてそれじゃ帰りますか、お腹空いたし。