今日は家に親がいないこともあって、晩御飯を済ませにモスバーガーへ。気軽にモスで晩御飯などと言えるようになったことに真っ当に大人になれた証のようなものを感じずにはいられません。しかしその実、それは実家で暮らしているというぶっといライフラインによって支えられているのであって、けして自分自身の経済力の証明にはならないことを肝に銘じなければいけません。…なにゆえ、たまのモスでそんな世知辛いことを考えねばならぬのか。
最近の自分の生活はずいぶんと安定していると思う。少なくとも定期的に気分がどん底に沈むような数年前の状況からは劇的な変化を遂げたことは間違いない。仕事の忙しさが自分を鈍感にしてくれていて、日々のストレスにそこまで深傷を負うことはなくなった気がします。これはいい意味でも、もちろん悪い意味でも。
昔好きだったクリエイターさんがエッセイで書いていたことをこの頃よく思い出す。
『結婚してよかった。もし独り身を長く続けていたら、自分はもっと哲学的に深く考えて過ごしていただろう。そういうものを置いといて、日々のことに振り回されて生きられているのは家族のおかげだと思う。』
そんな感じの文章だったと記憶している。書きながら果たして本当にそんな文章だったか自信がなくなっているけど。
それに紐づいて大学時代の恩師から言われたことも思い出す。
『自分のなかをあんまり深くのぞいても、答えは見つからないよ。』
こっちは正確な表現で覚えている。なぜならこの言葉に当時の自分は相当な怒りを感じたから。
数年前、病気で仕事を辞めて自暴自棄に日々を過ごしていた自分には、他人の言葉に温かみを見いだせるほどの心の余裕は残念ながらありませんでした。にわか哲学でとりあえずなにか考えているフリをしていた当時の自分を諌めてくれていたんだなぁと、今になって考えれば当時の恩師の言葉も腑に落ちるのですが、当時の自分はずいぶんと反発したものでした。
結局、人間は目の前に一生懸命になれるなにかがないとよからぬことを考える生き物なのだ。
それが先人方の言葉と一連の経験から学んだことでした。現に今の自分はひいこら仕事をして、あんまり深く考え事をすることが少なくなったと思います。そして確実にそれで自分の気持ちは楽になっている。これは間違いないこと。
でもなんでしょう。そんな日々を続けていて、時々どうしようもなく苦しくなるときがある。のどの奥がぎゅーっと圧縮されるような、そんな不快感がつきまとって離れない、今みたいな瞬間が不意にやってくる。
今の生活が安定しているからだろうか。それとも本当は現状に満足がいっていないと思っているのだろうか。まさか日常で押しつぶした”自分のなか”のなにかが訴えているとか。
わからない。
どんな理由をつけようとしても、考えようとした途端に「日常」が砂嵐のようなノイズをがなり立てて、答えを曖昧にする。そして曖昧にしたまま、気絶するように眠りにつくのです。
不安です。とても。でも、たぶん明日もとりあえず生きていく。いいとかわるいとかではなく、それがたぶん”日常”だから。