みちばた日誌

いまをぼちぼち生きる。

ガラケーとかスマホとかの話。

先日、学部時代にお世話になった教授に電話して、まったく繋がらなかったことがありました。呼び出しコールはなるし、留守番電話にも切り替わることから、おそらくケータイを替えたわけではないのだろうと思っていましたが、それから何日か経ってからかけなおしても音沙汰なし。元々ケータイを携帯しないことで有名な人でしたが、さすがにここまで連絡が取れないと少し心配にもなったので、大学に行ったときに研究室を訪ねることにしました。

 

研究室にはいつも通りの教授がいたので、まぁ心配するようなことは特になかったわけですが、とりあえず連絡がつかなかったわけを聞いてみました。すると教授は充電器が刺さったままのガラケーを取り出し、「差し込み部分が壊れて抜けなくってもたから、最近持ち歩いてないんだわ~」と照れ笑いしておりました。本当に心配して損した。笑

 

でもまぁ、自分もガラケーを使っていたときは、けっこう似たような感じだったかもしれんなぁ、と思ったりもしました。メールにしても電話にしても本当に必要な連絡のときにしか使わなかったし、数日経ってから返信することも割と普通だったよなぁと。もちろんガラケーの時代から筆まめ(メールまめ?)な人もたくさんいましたから、一概にはいえないんでしょうけど・・・。

 

スマホに替えてラインを使い始めてからは、そういう「時間をおいて返信すること」が許されなくなったように感じます。既読をつけてしまったらなるだけ早く返信する、というのが見えないルールとして存在している・・・というのは、ことさら私がいうまでもなく、多くの人が認めていることだと思います。

 

そういう見えない圧力を感じながら、ときには何人もの人と同時並行で連絡を取ったり、グループトークで複数の人とリアルタイムの会話をするということに、スマホ歴もいよいよ10年ほどになろうかというのに、私はどうにも慣れることができません。便利なものであることはちがいないし、なくなれば間違いなく困るとは思いますが・・・。難儀なものです。

 

ただまぁ、教授のガラケーを思い出すと、ラインやら他のSNSやらがなくなったとて意外と困ることもないのかもしれません。本当に必要な用事ならそれこそ本人に直接会って済ませればいい。会えないなら手紙を書くこともできるし、それでも連絡が取れないなら今はその関係は寝かせておいたほうがいい、くらいに思ったほうが健全なような気もします。会話することがコミュニケーションならば、会わないこともまたコミュニケーション足りうるのではないでしょうか。そういう相手への気づかいというか、想像力を基礎として、SNSなんかを使える人間になりたいものです。

 

・・・なんだか説教臭い話になってしまいました^^:

「便利さ」は「人間らしさ」を支えるものであってほしいし、その逆であってはほしくない。なかなか技術の進歩についていけないアナログ人間ですが、とりあえずそんな風には考えながら生きています。だもんで、自分が思う「人間らしさ」をまずは大切にしていきたいな、と。世迷言、失礼いたしました。