みちばた日誌

いまをぼちぼち生きる。

ししゃもの頭の話。

ししゃもの頭、あなたは食べますか?それとも残しますか?

突然申し訳ありません。しかし今日の話はその答えが重要になるかもしれませんので、冒頭で確認をさせていただきました。とても大事なことです。今後の人生を左右するかもしれませんし、そんなことはないかもしれません。とにかく今日は、ししゃもの頭の話。

 

結論から申し上げますと、私は「ししゃもを頭からしっぽまで平らげる民」です。同じく「頭からしっぽまで平らげる民」である、偉大な父と母の教育の賜物で、栄えある「頭からしっぽまで平らげる民」となりましたが、「頭からしっぽまで平らげる民」になるというその道程、つまり「頭からしっぽまで平らげない民」からの脱却は決して簡単なものではありませんでした。ここからはいかにして私が、「頭からしっぽまで平らげる民」になれたのか、そして「頭からしっぽまで平らげない民」であった時代の、「頭からしっぽまで平らげない民」の苦悩を書き連ねようと思いましたが、お話ししたいことの本筋から離れるうえ、頭からしっぽうんぬんのクドさが寿限無のそれになりつつあるので割愛します。

 

まず最初に話しておきたいのは、今朝までの私は「ししゃもの頭は一応食べるけど、頭は余分なパーツではないか」と思っていたということです。ししゃもの頭部の味や食感をノイズのようなものとして考えていたのです。より端的にいえばおいしくないと思っていたわけです。理由はいたってシンプルで「苦いし、なんかパサパサするから」。こどもの頃は頭を切り離して、身の部分だけを食べていた時期もありました。「平らげない民」の時代は私の中にたしかに存在していたのです。

 

しかしおとなになるにつれ、苦みに対して舌が少しずつ鈍感になってきたのか、あるいは単に切り離して食べること自体がめんどくさくなったからなのか、いまではししゃもは頭ごと食べるものとして私の中では定着しています。しかしだからといって頭に対するネガティブイメージが払われたわけではありませんし、頭は不必要なものであるという意識は変わっていませんでした。

 

しかし、今朝のことでした。私はいままでのししゃもに対するイメージを覆すような、あるとんでもない発見をしたのです。

 

今朝の朝食はししゃもでした。昨晩の残り物で冷蔵庫で冷たくなったししゃもです。「お前・・・昨日まではあんなに温かかったのにどうして・・・」などと感慨にふけることもなく無心で食べていたのですが、ふと昔ししゃもの頭が食べられなかったことを思い出したのでした。それで試しに頭を取って、腹の部分から下だけを食べてみることにしたのです。

 

口に入れてもぐもぐしているときは特に気になることはありませんでした。「やっぱ頭がないと苦みが少しなくなるな」と感じた程度です。しかし異変はその直後、次の一匹を頭ごと食べたときにおこりました。

 

「後味が違う・・・!?」

 

そう、頭と一緒に食べたししゃもの、飲み込んだ後の口の中に残る香ばしい香りが、頭なしのそれとは比べ物にならないほどそこにはあったのでした。それは30年弱の時間を生きてきた私にとって、初めて意識したししゃもの旨さでした。興奮した私は改めて頭なしのししゃもを頬張りました。・・・全く違う。身や卵の味わいに変わりないのですが、後に残る焼き魚特有の香ばしい余韻が感じられなかったのです。

 

私はどうしてもこの感動を言葉にしたかったのですが、果たして世の中のみなさんはこのことを知っているのでしょうか。ししゃもの頭を含めた魅力に実は世界は気づいていて、私が偉大だと思っていた父と母の「ししゃも教育」が間違っていたということなのでしょうか。いや、そもそも「ししゃも教育」とはなんなのでしょうか。

 

なにはともあれ身近過ぎて普段意識して食べていなかったししゃもの新たな一面を知れて、私はいまとても感動しています。世の中はこういう知っているようで知らないものであふれているのでしょう。そんなふうに考えると、日々もうちょっと丁寧に生きねばなぁ、などと思ったり・・・はさすがにちょっと言いすぎな気もしますが。笑

 

(追記)

この記事にししゃもの頭を残す人を貶めるような意図はございません。「ししゃもの頭からしっぽまで平らげる民」と「ししゃもの頭からしっぽまで平らげない民」の両方の民がいて、世の中はなんやかんやうまく回っているのです。これからもお互いに手を取り合って頑張っていきましょう。それでは。